로그인公園の脇にある古い木製のベンチに、二人は距離を置いて腰掛けた。
七海が少し離れた遊具の周りを歩いている姿が、生け垣の隙間から見えている。 真帆は膝の上で両手を固く組み、冷え切った指先同士を押し付け合った。「私は、九年前の事故のことも調べました」 真帆が切り出すと、沙耶の身体が目に見えて強張った。カーディガンの生地越しに、彼女の背筋がピンと伸びるのが分かる。「莉央さんが……七歳で亡くなったことも知っています。悠人から聞きました」「悠人さんから……なんて?」「沙耶さんの運転ミスで事故が起きたと」 真帆は悠人の言葉をそのまま口にした。「あなたが車内で取り乱して急ハンドルを切った。事故のあと精神的に不安定になって悠人に執着したから、離婚せざるを得なかった。……そして、七海に会わせているのは、立ち直れないあなたを哀れんだ悠人の善意だと」 沙耶は息を呑んだ。 その顔から、急速に「パソコンの中の写真は、いつでも見られるようにママが準備しておくね。写真を見たからって、パパに会わなきゃいけなくなるわけじゃないし、パパに連絡が行くこともないから、そこは安心していいよ」 真帆がはっきりと言葉にして返すと、七海は目を丸くした。「ほんと?」「ほんと。写真を見るのと、誰かに会うのは別々のことだからね」 七海は大きく頷いた。 真帆はそこで、もう一つ気になっていたことを切り出した。「それからね、七海。学校のことなんだけど、水曜日にスクールカウンセラーの先生が来てるでしょう? もし学校で何か気になったり、 ママにはちょっと言いにくいなって思うことがあったりしたときのために、一度、担任の石川先生とカウンセラーの先生に、ママからご挨拶しておこうと思うんだけど、いいかな」「わたしが何か悪いことしたから?」「全然ちがうよ。七海が学校で安心して図工をやったり、りんちゃんと遊んだりできるように、大人の先生たちとママで連絡を取っておくだけ」 七海は少し考えるように首を傾げてから、「石川先生ならいいよ」と答えた。「じゃあ、連絡帳とは別に、ママから先生にお電話しておくね」「うん。……あ、あとね、ママ」 七海は立ち上がりかけていた膝をもう一度折り、床の上の図鑑の角を両手でぎゅっと押さえた。少しだけ迷うようにまつ毛を揺らしてから、下から真帆の顔を覗き込む。 その瞳の奥には、先週の月曜日の朝、タブレットの画面を指で何度もスワイプしていたときの心細そうな影がほんのわずかだけ残っていた。「お魚の写真、見られる日はママがちゃんと教えてね。また黙ってどこかにしまったりしないでね」 釘を刺すような、けれど少しだけ甘えるような言い方だった。 あの朝の嘘は、こうして七海の中で「次はちゃんと言ってね」という約束の形に変わっている。「うん、約束する。近いうちに見られるように準備して、必ず七海に声をかけるね」「ゆびきり」 七海が出した小さな小指に、真帆は自分の小指を絡めた。 指切りをしたあと、七海は安心したよう
その日の夜、段ボール箱は真帆の寝室のクローゼットの上段にしまい、七海にはまだ出さずに夕食をとった。 食後、七海はリビングの床に座り、学校から持ち帰った図書室の本をめくっていた。海の生き物の写真が載った児童向けの図鑑だ。「ママ、見て。このカクレクマノミ、イソギンチャクの中に隠れてるよ」「本当だ。オレンジ色がきれいだね」 真帆は洗い物を終えてソファの前に腰を下ろし、七海の隣で図鑑を覗き込んだ。 ページをめくると、見開きいっぱいに大きなジンベエザメとエイが泳ぐ大水槽の写真が出てきた。 七海の指が、ページの端で止まった。「……前にもね、こういうお魚見たよ」 七海は図鑑に目を落としたまま、ぽつりと言った。「おっきいガラスの前で、パパと、沙耶さんと見たの。ソフトクリーム食べて、お土産のところで小さいイルカの消しゴム買ってもらった」 真帆は背筋を伸ばしそうになるのをこらえ、膝の上の手を緩めた。「……うん。楽しかった?」「うん。お魚見るの、すごく楽しかった」 七海の声には、何の飾り気もなかった。 真帆は娘の丸い瞳を見つめ返した。大人の事情や裏側の思惑がどうであれ、あの日ガラスの前に立っていた幼い七海にとっては、頭の上を泳ぐ大きなエイの白いお腹と、冷たいバニラソフトクリームの甘さこそが、自分の目で見て肌で感じた紛れもない現実だったのだ。 七海はそこで言葉を区切り、図鑑の角を指先でかりかりと引っ掻いた。「あのね、パパが大きな声を出したときは、すごく怖かった。ママに内緒にしなさいって言われるのも嫌だった。……でもね、前にお魚見に行った日は、ほんとに楽しかったの」 七海は顔を上げ、真帆の目を確かめるように見た。 怖いと思った記憶と、楽しかった記憶。その日そこでソフトクリームを食べて魚を見上げた七海の楽しさまで「嘘だった」と塗り替えてしまえば、七海は自分の感じたことを何ひとつ信じられなくなってしまう。「そっか。お魚も見られたし、ソフトクリームも美味しかったんだもんね。楽しかった
週が明けた月曜日の夕方、佐伯の事務所から「相手方より返還品一式が届きました」という連絡が入った。 翌火曜日の午後、真帆は仕事が休みだった菜月に同行してもらい、都心にある佐伯の法律事務所を訪ねた。 会議室のテーブルの上には、茶色い中型の段ボール箱がひとつ置かれていた。「こちらが昨日届いた箱です。当方で開封し、危険物や発信機等の混入がないことは確認済みです。先週の目録と現物を照合していただけますか」 佐伯の言葉に、真帆と菜月は椅子を並べ、箱の蓋を開けた。 緩衝材の紙をめくった瞬間、乾いた段ボールの匂いに混じって、微かに柑橘系の柔軟剤の残り香が鼻をかすめた。 前の家で悠人が好んで使っていた香りだった。紙の目録を見ているときには感じなかった生々しい生活の気配に、真帆は思わず息を浅くした。 上段に入っていたのは、緩衝材に包まれた紙粘土の小鳥や、色紙を貼った紙皿の工作だった。 どれも二年ほど前、七海が年長から小学一年生だった頃に作ったものだ。小さな紙粘土の鳥は、羽の部分に水色の絵の具が塗られている。 その下には、白い角封筒と茶色い紙袋が入っていた。 白い角封筒には『写真(計18枚)』と記されている。菜月が中身を少しだけ引き出すと、水族館や公園で撮られたL判のプリント写真が見えた。「お姉ちゃん、写真は私が先に枚数だけ数えるよ」 菜月が気を利かせて手元で束を改め、「うん、18枚。目録通り」と封筒へ戻した。 そしてもう一つの茶色い紙袋に、『工作教室ワークシート・手紙類(計4枚)』と記載されていた。 菜月が紙袋の口をそっと覗き込み、小さく息を吐いた。「ねえ、佐伯先生。こういう工作教室のワークシートって、普通は家に持ち帰ったら親が見るものですよね。 お姉ちゃんが一度も見たことがないってことは、義兄さんが教室から帰るたびに、自分の鞄か会社のロッカーに隠してたってことですか?」「おそらくそうでしょうね。当時のご家庭内で、水城沙耶氏との接触自体を秘匿していたわけですから、教室で作った制作物やシートも、ご主人が管理していた場所にまとめて保管されていたのだと思います」 佐伯の言
教室の後ろにある低いロッカーの上には、三十人分の四つ切り画用紙が順番に並べられていった。 凛の赤い夕焼け、前の席の男子が描いた緑色のサッカースタジアム、黄色い菜の花畑。色とりどりの画用紙が並ぶなかに置かれると、七海の描いた深い青色の画面は、そこだけ涼しい水をたたえた窓のように見えた。 石川先生がロッカーの端から一枚ずつ作品を眺めながら歩いてきて、七海の絵の前で足を止めた。「篠宮さん、これ、水の色の重なりがすごくきれいだね。上の方と下の方で、青の作り方を変えたんだね」「はい。上は水色に白を混ぜて、下はあいいろをたくさん塗りました」 七海が背筋を伸ばして答えると、石川先生は紺色のエプロンの膝を少し曲げ、七海と同じ目線の高さになって画用紙を覗き込んだ。 石川先生は、三年生になった七海の担任を受け持ってから、家庭の事情を詮索するような質問を一度もしなかった。いつどこへ誰と行ったのか、ではなく、目の前の画用紙に描かれているものだけを見てくれる。「たくさんの青があるけど、篠宮さんはこの景色のどんなところが好きだった?」 先生の穏やかな問いかけに、七海は少しだけ考えてから、画用紙の中央を泳ぐ銀色の魚を指差した。「お魚が近かったところです」「近かった?」「はい。ガラスがすごく大きくて、すぐ目の前をお魚が通るから、自分も水の中に入ってるみたいでした」「なるほどなあ。だから画用紙の端っこまで全部、水の色になってるんだね。見てる先生まで水の中に潜ったみたいな気持ちになるよ」 石川先生がにっこり笑って頷くと、七海の頬がほんのり温かくなった。 家に帰ったら、ママにも同じことを言おうと思った。 その日の夕方、学童から帰る道で七海が図工の提出が終わったことを話すと、隣を歩く真帆は目元を柔らかく細めた。「そっか、もう提出したんだ。先生、なんて言ってた?」「水の中に潜ったみたいって褒めてくれたよ。来週ね、廊下の壁に貼るんだって」「いいじゃない。三年生の廊下に貼られたら、今度学校へ行くときママも見るね」 アパートに着くと、七海は玄関で靴を脱ぎながら、図工バッグの中から白
同じ五月二十一日、金曜日の三時間目、市立緑ヶ丘小学校の三年二組の教室では、図工の『好きな色の景色』の仕上げと提出が行われていた。 七海は水曜日に家で塗ってきた青い背景の上から、クレヨンで小さな魚の群れと、水底の白い砂を描き足していた。 水彩の青が乾いた紙の上を、白いクレヨンが滑るたび、水槽の上から降り注いでいた光の筋が何本も浮かび上がる。「ななみちゃん、もうできた?」 隣の席の凛が、自分の画用紙を両手で持ち上げながら覗き込んできた。凛の画用紙には、赤とオレンジの夕焼け空の下に、黒いシルエットになったマンションの屋根と鉄棒が大きく描かれている。「うん、いま名前書いたところ」 七海は画用紙の右下に貼られた小さな名札シールの上へ、黒いサインペンで『3ねん2くみ しのみやななみ』と丁寧に書いた。 凛は七海の絵をじっと見てから、画用紙の右下――深い藍色に塗られた水底のあたりを指差した。そこには、白い砂の上に、昨日七海が「やっぱり描こう」と決めた小さな赤い帽子の置物がちょこんと描かれていた。「ねえ、このお魚の横にある赤いのなに? やっぱりお人形描いたんだ!」 七海は自分の絵を見下ろし、それからぱっと顔を上げた。 あの水族館の大水槽の隅には、潜水服を着た小さなマスコット人形が沈められていて、泡がぷくぷくと出る仕掛けになっていた。 写真には写っていなかったけれど、七海がガラスに額をくっつけて見ていたとき、一番近くで手を振るように揺れていた人形だ。「うん、いたんだよ。ブクブクって泡が出るところにね、赤い帽子かぶった小さいお人形が入ってたの」「えー、なにそれ面白い! お魚のおうちなのにね」「うん、お魚がそのまわりをぐるぐる回るんだよ」 七海が言うと、凛は「いいなあ、わたしも見たい」と声を上げて笑った。「ほんとだよ、ななみちゃんの絵、お水の中がキラキラしてるもん。わたし、青い絵の具ってすぐに黒っぽくなっちゃうから、そんなにきれいに塗れるのうらやましいな。どうやって塗ったの?」「あのね、最初に水だけを筆で紙に塗ってから、そのあとに水色をちょんちょんって落とすの。そうすると、勝手にふ
同じ金曜日の午前十一時、真帆は昼休みを前倒しにして、佐伯の事務所とオンライン面談を繋いだ。 画面の向こうの佐伯は、昨日届いた返還品目録の控えを手元に置きながら、来週からの具体的な段取りを整理してくれた。『先方の篠田弁護士から連絡があり、返還品の段ボール箱は月曜日に当事務所へ到着する予定です。 当方で開封して危険物や発信機等がないかを点検した上で、火曜日の午後に篠宮さんへお引き渡ししたいと思いますが、ご都合はいかがでしょうか』「はい、火曜日の午後なら在宅業務を調整して伺えます。その日は妹の菜月も仕事が休みなので、一緒に同行してもらおうと思います」『ええ、妹さんがご一緒なら心強いですね。それから、昨日お送りした先方の追加書面にある「六月末日までの一次回答希望」について、念のため今後のスケジュールを共有しておきます』 真帆は手元のA5ノートを開き、ボールペンを構えた。『先方が勝手に区切った日付に合わせる義務はありませんが、こちらとしても問題を長引かせず、六月下旬から七月上旬にかけて、 客観的な事実確認に基づく正式な回答書を送付するのがよいでしょう。 来週火曜日に『おえかきメモ』四枚の原本を確認できれば、それがいつどのような課題で書かれたものかが判明します』「相手の篠田という弁護士さんは、あの紙が『おえかきメモ』の切り抜きだということを分かって出しているんでしょうか」 真帆が尋ねると、佐伯は眼鏡のブリッジを軽く押し上げた。『そこは冷静に見ておく必要があります。代理人弁護士は、依頼人から渡された資料と説明をもとに書面を作成します。 篠宮悠人氏が「娘が以前書いた手紙のコピーだ」と言ってあの一枚だけを渡していれば、 篠田弁護士自身は、元の用紙が四枚組のワークシートであることや、いつの日付のものかまでは深く確認していない可能性が高いでしょう』「……悠人が、自分の主張に合う部分だけを渡しているかもしれない、ということですね」『はい。ですから、感情的に反発するよりも、来週届く現物の日付と全体像を確認し、「提出された写しはいつ頃のどの課題の一部であり、現在の本人意